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第8回 僕らのモバイル音楽大賞受賞~喜びの顔ヽ(´▽`)/

年末に受賞曲を発表しました、第8回僕らのモバイル音楽大賞。
今回も記念の盾と賞状を関係者の皆さんに渡してきました。

大賞「キッスは目にして!(ぽぉ)/ザ・ヴィーナス」の徳間ジャパンコミュニケーションズさんと、特別賞 「亜麻色の髪の乙女/ヴィレッジ・シンガーズ」のホリプロさんの喜びの顔です。

関係者の皆様、お忙しいところお時間をとっていただきありがとうございました!


徳間ジャパンコミュニケーションズ 新井さん


ホリプロ 佐藤さん

お忙しいところありがとうございました。


さて、2月13日に徳間ジャパンコミュニケーションズさん発行のフリーマガジン「微風」掲載の記事から厳選、再編集された「歌えば何かが変わる 歌謡の昭和史」(著・篠木雅博、佐藤剛 編・徳間ジャパンコミュニケーションズ「微風」編集部)が発売されます。
「大ヒットを飛ばしたレコードのB面曲や企画もの」「昭和を席巻した箇所と流行歌の系譜」などなど昭和の歌謡曲好きにたまらない一冊となっています。要チェックです

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雑誌「公募ガイド」の発行を30年近く続けている。90年代はとくに"公募"がブームとなり、私が責任者だったということもあり、テレビやラジオによく出演した。
NHKのラジオなど、コメンテーターのみならず、番組の企画構成から手伝ったものもある。
そんなある日「テレビ東京で、公募をテーマにした新番組をやりたい」と、制作会社が相談に訪ねてきた。
打合せを重ねているうちに、では、私に出演してくれないかとの依頼。
その前から、何度もテレビやラジオに出たり、多くのマスコミ取材を受けていたので、ここは雑誌PRの場にもなると快諾。
番組は、1999年4月から始まる月曜19時からのゴールデン50分枠。
局や制作会社も、それなりに力を入れた番組だったと思う。
朝から夜まで、2本撮りの収録が始まった。
私の役割は、様々な公募を紹介する公募案内人兼コメンテーター。
個人の控え室も準備され、2本目までの空いた時間は、昼飯の弁当や休憩に使う。
レギュラーで番組収録に出演するのは初めてで多少の戸惑いもあったが、回をおうごとに慣れていった。
レギュラー陣は、板東英二さん、麻木久仁子さん、伊集院光さん、吉井怜さんほか。
辰巳琢郎さんや秋野暢子さんなど、毎回、多彩なゲストも登場。
楽屋では、板東英二さんとテレビで野球を観ながらの雑談も。
金田さん、長嶋さん、村山さんのことなどなど…。
しかし、思うように視聴率がとれず、スタッフや出演者の奮闘もむなしく番組はワンクールで終了した。
私も素人ながら、ラメ入りジャケットや紋付き袴など毎回、衣装にも工夫を凝らしたが(スタイリストが勝手に控え室に持ってくる)、努力は報われなかった…と、いうより、これが視聴率がとれない一番の要因だったか?
ちなみに、私のギャラはナシ。スタッフが忘れていたのか?最後まで催促はしませんでした。
が…1本5000円でもいいからギャラが欲しかったのが本音。それほどレギュラーコメンテーターは、しんどい(半端ない神経を使うから)仕事でした。
他方、一つの番組の作り方をみつめ、レギュラー出演したことは、いい経験になりました…。
最後に、出演者の皆様、スタッフの皆様、その節は大変お世話になりました。この場をかりて御礼申し上げます。そして、皆様の益々のご活躍を祈念しています。
川原和博

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「昭和の作詞・作曲家列伝」~歌謡曲の元祖・作詞家、西條八十。著者・野口義修

さて、今回は、作詞家の西條八十(さいじょう やそ、1892年1月15日 - 1970年8月12日)さんをご紹介します。
西條さんほど、言葉の世界で幅広く活躍した作家はおそらくいないと思います。
詩人、作詞家、仏文学者、大学教授……。
その作品は、童謡から演歌、民謡、歌謡曲、軍歌までジャンルの垣根を越えた活躍です。

西條さんは、東京府(現・東京都)出身で早稲田中学時代から文筆の世界で身を立てたいと感じていたそうで、それは、中学で出会った生涯の恩師、吉江喬松先生(フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授)の影響が大きかったと思います。
西條さんも、早稲田大学に進み、後にフランスのソルボンヌ大学へ留学し、帰国後、早大仏文学科教授になっています。
学生時代、早稲田の天才詩人と謳われた三木露風 (赤とんぼ 十五夜)と活動を共にしたり、同じく、早稲田出身の北原白秋 (ゆりかごのうた からたちの花)、野口雨情 (十五夜お月さん 七つの子 シャボン玉)とともに、童謡界の三大詩人と謳われました。
当の西條さんは、「かなりあ」「肩たたき」「鞠と殿様」など、今も我々の心に残る童謡を残しています。
「唄をわすれた金糸雀(かなりあ)は後ろの山に棄てましょか?」と問う「かなりあ」には、一つのエピソードがあります。
西條さんは、大正の初めの一時期、株式相場にのめりこみました。なんとしても(平成のお金にして)50億円という大金を稼いで、詩人会館を作るという大きな夢があったのです。そして、49億円までため込みました。詩人にしておくには惜しい才能ですね(笑)。
ところが、大正9年の株暴落で無一文になってしまいます。
当然、その株に夢中だった間は、創作は行っていません。
当然のように、親戚たちは、西條さんの奥さんである春子さんに、離婚を勧めました。
春子さんは、自分がなんとか旦那さんを立ち直らせると言い張り、離婚をせず、添い遂げたそうです。
これを機に、西條は創作に打ち込み始めます。
そこで生まれたのが「かなりあ」でした。
歌を忘れた“かなりあ”は、西條さん自身のことだったのです。そして、♪いえいえそれは かわいそう……の部分は、まさに、妻の春子さんの言葉だったのですね。

西條さんには、もうひとつ想い出がありました。
少年時代のクリスマス、教会で切れた電球の真下にいた“かなりあ”。それが、まるでさえずることを忘れた鳥のように、哀れに思えたそうです。
西條は、「わたしはいつか自分自身がその『唄を忘れたかなりあ』であるような感じがしみじみとしてきた」と自叙伝に著しています。
このように、西條さんは、単なる作り話としての詩ではなく、自分を投影するスクリーンとして詩を書いていると言えます。また、ヒットをとばしている多くの作家が、自分の人生をその作品の中に滲ませているのです。
創作のエピソードを見ていくと、作家の人となりがよく分かる訳です。

さて、奥様の春子さんという名前で、ふと気が付くのは西條さん作詞の「王将」です。
坂田三吉という天才棋士の人生を描いた大ヒットですね。この奥様が、小春さんなのです。
ご存知の通り、「王将」は1961年にリリースされた村田英雄最大のヒット曲です。

実は、村田さんとディレクターの斎藤昇さんや事務所の社長が、西條邸を訪れて作詞の依頼をしたのですが、「男の歌詞は書かない!」と言下に断られました。
ところが、男・村田さんは、連日、西條さんのもとに頭を下げに来たそうです。
ある日、雨の中、村田さんは濡れながら西條先生を待っていると、春子奥様が可哀相と家の中に招き入れてくれたそうです。
そして、奥様の取りなしで西條さんに、もう一度頼みました。これを機に、西條先生と一緒に食事をすることとなり、村田さんの豪快さや人間味に触れた西條さんは、あの名曲「王将」を生みだすこととなったのです。
後日、作品を受け取りに西條邸をたずねると、原稿用紙には最初の一行「吹けば飛ぶような将棋の駒に」だけが書かれていたそうです。
ここで村田さんに語った言葉が西條先生の創作の秘密を教えてくれています。
「 (作詞では)出だしが肝心。この1行が歌の全て。これを作るまでが大変。いい出だしができれば、その後の詩も自然といいものができる」
確かに、西條さんの歌詞を思い出すとき、その一行目が心にスッと蘇ってきますね。

さて、西條さんといえば、舟木一夫さんを忘れることが出来ません。
西條さんの没後、形見分けとして、西條さんが生前に書きためた文章や未完の詩などを、全て舟木さんが受け取ったそうです。
それ程の師弟愛があったのですね。

舟木さんと西條さんの最初のコラボレーションは、先生が70才を越してからのこと。
舟木さんのデビュー曲「高校三年生」は、西條さんのお弟子さん作詞家の丘灯至夫さんでした。
若い舟木一夫こそ、自分の作品を託すのに最高の人材と見抜いたのでしょうか? 西條先生は丘さんに「自分にも舟木の為に歌詞を書かせてくれ」とさりげなく頼んだそうです。

ここでのエピソード!
西條さんは、しばらく前から作品を書いていませんでした。「先生はここ数年作品を書いていないのはなぜですか?」という無邪気な舟木さんの質問に、自分の奥さん(春子さん)が亡くなって、仕事をして金を稼いでも使ってくれる奥さんがいないのじゃぁ仕事をする意味も無くなってしまった……と答えています。

実は、作詞家の星野哲郎先生も奥様が亡くなった後、急に老け込んでしまったのを覚えています。
作家を支えているのは、奥様なんだなぁと思わずにはいられません。

舟木さんとの最初の作品は、「花咲く乙女たち」でした。少女を花にたとえ清らかに歌い上げる世界感は、デビュー当時の舟木さんとドンピシャでした。
西條さんの直感は当たったのです。
実は、西條さんは、吉屋信子などと並んで、少女小説の代表的な書き手でした。苦しみに耐えた少女達が最後には幸せを掴んでいくという少女小説の世界感!
まさに、舟木さんと西條先生の接点であったのでした。
そしてその後、あの名曲「絶唱」が生まれました。

西條さんの幅広さを伺わせるエピソードを最後に一つご紹介しましょう。
昭和九年ごろ早稲田大学で教鞭を執っている時の話です。
先生は、フランスの詩人ランボーの長詩「酔いどれ船」について注釈を述べていたそうでです。
すると、教室外の道路からチンドン屋さんが♪昔恋しい銀座の柳……と先生作詞の「東京行進曲」をにぎやかに演奏しはじめました。
学生たちはいっせいに爆笑。
西條さんは「わたしの歌は流行しているのですね」ととぼけた口調でつぶやきながら、そのまま講義を中止してしまったそうです。
このギャップこそ、西條さんの本質であり、魅力なのでしょうね!

西條八十さん、苦(九)が無いようにと 九を飛ばして付けられた八十という名にとどかず70才台後半で亡くなってしまいました。

もし、その頃に国民栄誉賞があれば確実に先生は手にしていたことでしょう!
なぜなら、先生の代表作と言っていい「青い山脈」は、作曲の服部良一さんも、歌唱の藤山一郎さんも、国民栄誉賞を受賞しているからです。

今一度、先生の音楽に耳を傾けたいですね!

著者・野口義修

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「昭和の作詞・作曲家列伝」裕次郎との運命的な出会い~なかにし礼。著者・野口義修

さて、今回は、日本歌謡曲の黄金時代をその素晴らしい歌詞で支え、小説や舞台、TVのコメンテーターなど多方面で幅広く活躍されているなかにし 礼 (なかにし れい 本名 中西 禮三<なかにし れいぞう> 1938年9月2日 - )さんをご紹介いたします。

なかにしさんは、その人生において、壮絶な光と影を体験してきています。
光……常人ではおよそ見当もつかない「曲(作詞)を出せばヒット、小説を書けば受章」といった華やかなその天才から発せられるまばゆいばかりの光!
影……終戦、満州からの引き上げ、貧困、退学、退学、浮気、離婚、兄の膨大な借金の返済、ガンの闘病からの復活〜と苦しみを背負ってきた人生。光がまばゆければ、まばゆいほどその影は濃くどす黒く見えるのです。

この光と影のセットがなかにしさんを、日本を代表する作詞家、作家に育て上げたことは、間違いないでしょう。
凡人は、チャンスを探し求め、万が一見つけても門前払いされるのが常ですが、天才は、チャンスのほうから手招きをしてくれるといいます。
なかにしさんは、人生をかけた大一番のチャンスの神様からの手招きを経験しています。
25才のなかにしさんの最初の新婚旅行の夜、下田のホテルのロビーにいたなかにしさんを“手招き”する人がいたそうです。
それが、なんとホテルのバーで飲んでいた石原裕次郎さん! 当時28才頃。
数多いる新婚旅行のカップルの中で、一番光っている二人を選んで「新婚カップル賞」をあげようという裕次郎さんお得意のお遊びで、なかにしさんカップルを選んだのでした。
裕次郎さんは『太平洋ひとりぼっち』の撮影で来ていていたのです。
その頃のなかにしさんは、フランス語を猛勉強中で、学生ながらシャンソンの訳詞でそうとう仕事もあったそうです。
それを裕次郎さんに伝えると、
「 (そんな外国の歌の訳なんかやめちゃって)日本の歌を書けよ。書いて俺のところに持ってきたら、俺が売り込んでやるよ」と(軽く)言われました。
まさにチャンスの神様からの手招きです。
そのあとすぐ映画『太平洋ひとりぼっち』が封切り(1963 年)されて、裕次郎さんの「俺も一生懸命つくってるんだから、観てくれよ」の言葉を思い出し、観に行きました。
その映画のワンシーンが、もう一つのチャンスでした。
太平洋での難局を切り抜けた後、ハワイ放送のラジオから、村田英雄の「王将」が流れてくる場面。
裕次郎さん(映画では主人公の堀江謙一役)が、「♪吹けば飛ぶような 小さなヨットに賭けた命を 笑わば笑え」と涙ぐみ、嵐の静まったヨットの中でベッドに横になるシーンでした。
そのときになかにしさんは、相当ジーンときて、「これはちょっと日本の歌を書いてみるのもいいかなあ」と思ったそうです。
ひょっとすると、裕次郎さんもこのシーンと王将という歌に、大きな意味を感じていて……若いなかにしさんに、日本の歌! 歌謡曲の歌詞を書いて欲しい!そして君なら出来る! そう直感したのではないでしょうか?

一年後、自身の作詞作曲で「涙と雨にぬれて」という楽曲を持っていき、石原プロの裕圭子 (ひろけいこ) とロス・インディオスでレコーディングされたのです。作詞家、なかにし礼の誕生です。
裕次郎さんの、仁義に厚く約束を守るところに、なかにしさんはほんとうに感激したそうです。
その後、裕次郎さんから「今度デビューさせる黛ジュン、あの子のことは礼ちゃんに任せるからな。よろしくたのむよ」と連絡があり、実際、彼女に書いた「恋のハレルヤ」は大ヒットしました。

大ヒットした菅原洋一さんの「知りたくないの」では、洋一さんとやり合います。
歌詞の中の「過去」という単語。今では当たり前の歌詞の言葉ですが、当時(1965年頃)、こういった漢字文字でしかも鋭いカ行(破裂音)の連続はメロディーに馴染まないというのが洋一さんの頑固な意見。
「過去」こそ、この歌詞のへそ(キーワード、売り言葉)だ! (洋一さんも)プロならプロらしく歌いこなせ! となかにしさん。
まだ、ヒットもない学生上がりのなかにしさんも一歩も引かなかったらしいです。
でも結果は、大ヒット。洋一さんの代表曲となりました。

また、なかにしさんが作詞・作曲した黒沢年男 (現:黒沢年雄)の大ヒット曲「時には娼婦のように」(1978年)は、同年に映画化となり、自らが企画・脚本・主演・歌唱も行うマルチぶりを発揮しました。まさに、なかにしさんの天才を示す作品ですね。この歌を改めて聴くと、まずはその歌詞のエロティックな響きに耳が行きます。70年代の歌謡界において、タブーとも言える内容をアーティスティックに歌詞として完成させた才能!
そして、そのメロディーに注目です。なにしろ作曲もご本人です。
そのリズム、語るような旋律~やはりシャンソンです! なかにしさんが、愛してやまないフランスのシャンソンの世界感が色濃く漂っているのです。
シャンソンには、日常の恋や人生が、日常の言葉で歌われています。なかにしさんの歌詞の世界も同じです。
やはり、なかにしさんの原点はシャンソンなのでしょう。

さて、ここでなかにしさんが初めて訳詞を手がけた頃を振り返ってみます。
学費が払えず、やむなく大学を2度も中退して、シャンソンの聴けるお店(御茶ノ水駅前のシャンソン喫茶『ジロー』)でボーイとして働き、学費を貯金していた頃です。
あるシャンソン歌手に恋をして、ラブレターを書きました。
その返事には
「あなたの思いを叶えることはできないけれど、あなたの手紙はとても詩的だから、私のシャンソンの訳詩をしてくれないか」
とありました。
そのときの訳詩料は500円。時給23円の時代の学生には、夢の様な金額ですね。
安アパートの家賃1ヶ月分になったそうです。
そして、訳詞で一生懸命資金を貯め、大学に復学しました。
なかにしさんの人生には、そんな出会いがいっぱいあったのですね。

さて、人生の大恩人、裕次郎さんが自分の死を自覚しながら、なかにしさんに歌詞を発注しました。

♪たったひとつの 星をたよりに
はるばる遠くへ 来たもんだ
長かろうと 短かろうと
わが人生に 悔いはない……

加藤登紀子さんが作曲して素晴らしい歌が生まれ、数十万枚という大ヒットもしました。
1987年4月21日にリリースされ、同年7月17日に裕次郎さんは永眠されます。
あの下田のホテルで、素晴らしい出会いのチャンスをゲットしたのは、裕次郎さん自身だったのかもしれませんね。

なかにしさんの作品は、作詞作曲したロス・インディオス「知りすぎたのね」をはじめ、黛ジュン「天使の誘惑」、ザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」、ペトロ&カプリシャス「別れの朝」、いしだあゆみ「あなたならどうする」、奥村チヨ「恋の奴隷」、ザ・ピーナッツ「恋のフーガ」、弘田三枝子「人形の家」など、4000曲を数えます。
小説では、『兄弟』(実の兄弟を描く)、『長崎ぶらぶら節』(22回直木賞を受賞)、『赤い月』(映画化・テレビドラマ化・ラジオドラマ化で100 万部に迫るロングセラー)、『てるてる坊主の照子さん』(NHK連続テレビ小説『てるてる家族』原作)など大ヒットの連続です。

2012年ガンの闘病から復帰され、まだまだ現役! のなかにし礼さん。
さあ もう一度、なかにし礼さんの手がけた名曲の数々を聞きましょう!


著者・野口義修

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「昭和の作曲家列伝」~歌謡曲の父、服部良一。著者・野口義修

さて、今回は、作曲家の服部良一 (はっとり りょういち、1907年10月1日 - 1993年1月30日)さんをご紹介します。
日本の歌謡曲の父とも言える天才作曲家であり、洋楽(ジャズやタンゴ、ブルースなど)を日本の音楽に取り込んで、新しい音楽(=歌謡曲)の礎を築いた最高の功労者です。

服部さんは、専門の音楽教育を受けた訳ではありません。作曲家の道は天賦の才と独学で切り開いていったのです。服部さんと同期で日本を代表する歌謡曲の作曲家、古賀政男さん(「影を慕いて」)や古関裕而さん(「高原列車は行く」)も独学です。
歌謡曲の歴史は、こうした天才達の努力の賜物と言えそうです。

小学校を卒業後は、夜学で商業を学び、出雲屋少年音楽隊から大阪フィルハーモニック・オーケストラと、どちらかと言えばクラシック畑の演奏者(サックス)としての道を歩みました。
このオーケストラで、人生を変える出会いを経験したのです。
指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテル先生にその才能を見出され、4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けたのでした。
オーケストラでクラシックを演奏しつつも、服部さんは、ジャズに魅せられていきました。
その魅力を自分の音楽に取り込みたいという気持ちが高まったのでした。
その後の服部さんのエネルギー源であり、アイデアの源となったのは、アメリカのジャズだったのです。
1936年、29歳でコロムビア・レコードの専属作曲家となりました。ご承知のように、当時はレコード会社の専属になることがプロの作曲家となったことの証です。
さて、服部歌謡の第1号と言っても良い作品が、淡谷のり子さん歌の「おしゃれ娘」でした。
この歌は、イントロからエンディングまで、どこを切り取ってもスイングジャズの香りがする佳作です。正直、淡谷さんのクラシック風味のソプラノが、ジャズの香りと溶け合っている訳ではなく、作曲も歌唱もまだ試行錯誤といった印象です。
でも、サウンドはアメリカの最先端の響きを醸し出していました。
翌年、ジャズ・コーラス「山寺の和尚さん」を作曲しました。あの、♪山寺の和尚さん~~というメロディー、服部さんの手によるものだったのですね。
実は、この2曲のメロディーには、共通点があり(♪ダカヂク ダカヂク ダカヂク ダカヂク エイホホーの部分)、そこからも試行錯誤の時代を感じ取れるのです。

しかし、ここから服部先生の快進撃が始まります。
1938年、淡谷のり子さんに書いた「別れのブルース」「雨のブルース」は大ヒットしました。
ブルースとは、ジャズやロックで耳にする音楽形式のことですが、服部先生は、その形式を意識するにも拘らず、日本式歌謡ブルースを作り上げることに成功しました。
淡谷さんには、低音の歌唱を要求したそうです。
先の「おしゃれ娘」で、クラシック系のソプラノが、自分のメロディーに合わないと考えたのでしょうか?
淡谷さんに、低くしわがれた声質を求め、それを譲らなかったそうです。彼女も、レコーディング前に、タバコを一晩中吸って、喉を痛めつけ、あの歴史に残る名歌唱を残しました。
これで、淡谷さんは和製ブルースの女王と呼ばれるようになったのでした。

そして、「蘇州夜曲」! 服部さんの代表曲の一つです。服部さんは、自分の葬儀のときに、この音楽を流してくれと遺言を残していたそうで、実際に、服部さんは「蘇州夜曲」に送られて旅だったそうです。
このメロディーは、中国メロディーをベースにジャズや日本の旋律を合体させたものです。服部さんは、このメロディーを軍の慰問団として訪れた上海で作ったそうです(1938年)。
服部さんは、こう語っています。
「ぼくは、アメリカのジャズの物真似ではない、日本のジャズ、東洋のジャズを作りたいとずっと考えてきました。それがぼくたち若い者の使命だと信じて仕事をやってきました。
 『蘇州夜曲』は、アメリカのスウィート・ジャズと、中国のイメージと、日本人の感覚とをミックスさせたもので、ぼくのイメージの中には上海の強烈な印象がありました。
ですから、『蘇州夜曲』はあの時の上海の体験から生まれたものであると言ってもいいでしょう。」
当時の上海は、ジャズの本場として、日本のミュージシャンのあこがれの地だったそうです。
しかし、上海のジャズは、アメリカのモノマネや受け売りではなく、中国のメロディーをジャズ風にアレンジした、つまり、ジャズを解釈し理解した上での、新しい中国メロディーだったようです。
それが、若い服部さんを大いに刺激しました。
西洋や他の文化から採り入れた新しい音楽に日本のメロディーを合体させ、新しい音楽を生みだすという服部さんの、音楽的姿勢は、この時から始まったのかも知れませんね。

戦中、多くの作曲家は、軍歌を作る事を強要されました。
しかし、服部さんには軍歌のヒット作品は多くありません。一説に、戦争反対の心から服部さんは、軍歌を作らなかったと言われます。どうも、そうではないようです。基本的に、明るく前向きのメロディーが得意の服部さん、軍歌だけは得意ではなかったようです。

戦後の混乱期、日本国民は明るく前向きな音楽を求めていました。
たとえば、戦後の「リンゴの唄」(作詞:サトウハチロー 作曲:万城目正)の大ヒットも、まさにそういった背景からでした。

戦後の服部さんは、名曲を連発して、日本人の心を勇気づけます。あるいは、感動を届けます。
まずは、笠置シヅコさん歌う「東京ブギウギ」が、終戦の翌々年大ヒットしました。
ブギウギというリズムもまた、服部さんが日本に持ち込んだ、ジャズのリズムです。
戦争中は、敵国音楽としてジャズなどを聴いたら、処罰ものだったでしょう。でも、服部さんは、密かにジャズを聴き、ジャズを自分のものとして解釈した音楽を世に送り出したいと考えていました、

もともとは、ブギウギは黒人のリズム感から生まれた3連符を基本とする強力なビートです。
「東京ブギウギ」では、それを服部流の解釈で、日本人向けにしたのでした。
実は、ブギの3連符のリズムは、阿波踊りのリズムに共通する部分があります。元々、ブギは日本人にドンピシャなリズムだったのです。
その後、ブギは大変なブームを巻き起こしました。
「ジャングルブギ」「買い物ブギ」「三味線ブギ」……なんでもかんでもブギが付けば売れました。
「三味線ブギ」は、大人数の三味線が、♪ジャンガ・ジャンガ・ジャンガ・ジャンガ……と、ブギのリズムを刻みます。そこに人気歌手で芸者の市丸さんが、粋な歌唱を載せるのです。
まさに、他の追従を許さぬ服部ワールド全開と言って良いでしょう。

また、平成の世になっても、後世に残したい歌で、必ず上位にランキングされる「青い山脈」もまた、服部作品です(1949年)。

さて、多くのミュージシャンにカバーされている「買物ブギ」(作詞:村雨まさを)ですが、実は、作詞家の村雨まさおさんは、服部さんご本です。日本初のラップ作品と言ってもいい歌ですね。
とにかく、言葉の連射砲、単語の雨あられですが、作曲家自ら言葉を書いているので、リズムのキレが良いのは、納得できますね。
ちなみに、決め台詞の♪わてほんまによういわんわ……は、歌の笠置シヅコさんの、本音から出た言葉だそうです。
こんなに多くの単語の羅列の歌詞、歌えないわ……という意味で、彼女の口からふっと出た「♪わてほんまによういわんわ」という言葉を、即、歌詞に取り込んだそうです。
この遊びの感覚、笑いの感性は、服部さんが大阪の出身と言うことも大きく関係していると思います。

服部さんの家族は、素晴らしい音楽家一家です。
長男の服部克久さんは作編曲家、孫の隆之さんも作編曲家です。
お二人とも、フランスの大学に留学し、作編曲を学んでいます。
服部さんご自身は、独学でしたね。でも、人生最大の恩師、エマヌエル・メッテルさんから学んだ経験を思い出し、子どもや孫には、学ぶことの大切さを感じて欲しいと願ったのかも知れません。

日本の歌謡曲~ポップス界を切り開いてきた服部良一さん、最期は、国民栄誉賞を受賞されました。
今一度、先生の音楽を味わいたいですね。

著者・野口義修

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四天王が駆け抜けた青春歌謡の時代(下)~著・鈴木清美 (2012年6月の記事より)

 「東京スカイツリーの開業まで、いよいよ2カ月を切りました」という書き出しの前文で今回のシリーズの最初の原稿を書いてから2カ月以上が経ち、東京スカイツリーも先週、本当にグランドオープンしてしまいました。先日の皆既日食の報道を見ていたら、「ロッテ歌のアルバム」がスタートした昭和33年にも日本で皆既日食が観測されたそうで、色々な偶然の一致に驚いています。シリーズ最後の原稿となる今回は、青春歌謡を支えた銀幕スターにも言及しつつ、その原点も探ってみたいと思います。

 前回は、橋幸夫さん・舟木一夫さん・西郷輝彦さんの御三家に三田明さんを加えた“青春ビッグ4(フォー)”が、「圧倒的なパワーで流行り歌を若者の娯楽に組み立て直し」(『玉置宏の昔の話で、ございます』[小学館])、青春歌謡のムーブメントを牽引して、ロッテ歌のアルバムを「支えてくれた大きな原動力」(玉置宏さん)となったことを書きました。
 4人が初めて「ロッテ歌のアルバム」で顔を揃えたのは1966(昭和41年)1月30日に放送された第400回記念番組の時だったことも紹介した通りですが、実は、玉置さんは、著書で次のようなエピソードも披露しています。
 「以後、御三家、又は青春ビッグ4で集まるのは『ロッテ…』だけにしようという了解が、私の知らないうちに4人の中で取れていたようで、それから100回記念ごとに集まってくれて、その度に番組も大いに盛り上がったのです」
 株式会社ロッテが1998(平成10)年に発行した『ロッテ50年のあゆみ』の年表によると、美空ひばりさん・江利チエミさん・雪村いずみさんの初代“三人娘”が初顔合わせをしたのは1962(昭和37年)の正月特別番組、三波春夫さんと村田英雄さんがテレビ初共演したのは300回記念の時だったそうですから、改めて、昭和30年代の歌謡曲界におけるテレビの歌番組として「ロッテ歌のアルバム」が如何に大きな影響力を持っていたかを思い知らされます。
 しかし、その「ロッテ歌のアルバム」をしても、なかなか出演してもらえなかったのが、まだ、娯楽の王者としての地位を占めていた映画に出演している銀幕スターの皆さんでした。
 玉置さんは、2003(平成15)年にレコード会社8社による横断企画として発売されたCD「ロッテ歌のアルバム」のナレーションで、次のように、当時を振り返っています。
 「当時、映画主題歌からヒットが沢山生まれました。特に、日活の水ノ江滝子プロデューサーは『俳優さんすべてが歌える映画スターでなくてはいけない』、こんなお考えをお持ちでした。ですから、(石原)裕次郎さんをはじめ、とにかく、俳優さんのほとんどが歌のオリジナルを発表しております」
 「ところが、映画の撮影が忙しく、なかなか、番組に登場してもらうことはできませんでした。しかし、日活スターが登場するという時の代々木山野ホールは長蛇の列で、入場整理券の奪い合いがあったのも懐かしい思い出でございます」

 青春歌謡のヒット曲の多くも、そのままのタイトルで映画化され、歌手の皆さんも銀幕スターとともにスクリーンに登場した時代でもあったわけですが、今回のテーマである青春歌謡ということでは、吉永小百合さんについて言及しないわけにはいきません。
 玉置さんは、銀幕スターの皆さんに「なかなか、番組に登場してもらうことができませんでした」と語っていますが、以前、作詞家の佐伯孝夫さんを特集したテレビ番組に出演した橋幸夫さんは、第4回日本レコード大賞を受賞することになる「いつでも夢を」のレコーディングでも、多忙を極めていた小百合さんが築地にあったビクターのスタジオに来ることができず、「オーケストラとの同時録音が一般的だった当時、初めて、ダビングでの音入れを経験しました」と述懐されています。橋さんによると、オーケストラの伴奏録音には、先に小百合さんの声が入っており、それに合わせて、橋さんがスタジオで歌ったのでした。お二人が初めて「いつでも夢を」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)を実際にデュエットされたのは、1962年(昭和37年)12月27日に日比谷公会堂で開かれた第4回日本レコード大賞受賞発表音楽会の時だったといいますから、本当に驚いてしまいます。
 小百合さんのデビュー曲「寒い朝」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)が発売されたのは1962年(昭和37年)4月のことですから、デビューした年に「いつでも夢を」で日本レコード大賞を受賞してしまったわけで、橋さんとのデュエットソングだったとはいえ、新人がいきなり大賞を受賞したというのは、長い日本レコード大賞の歴史の中でも、恐らく、空前絶後のこととなっているはずです。
 小百合さんは、「いつでも夢を」以外にも「若い東京の屋根の下」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、「そこは青い空だった」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)などを橋さんと歌っているほか、三田さんとも「若い二人の心斎橋」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、「明日は咲こう花咲こう」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)などのデュエットソングを発表して、何れも大ヒットしました。そもそも、デビュー曲の「寒い朝」も和田弘とマヒナスターズとの共演だったわけですし、グループサウンズ(GS)ブームの初期で、まだ、GSではなくフォークロック・グループなどと呼ばれていた1966年(昭和41年)10月には「勇気あるもの」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)でトニーズとも一緒にレコーディングをしています。
 青春ビッグ4のうち、橋さん・三田さんというビクターのお二人とデュエットソングを発表していること、「いつでも夢を」でレコード大賞も受賞していること、そして、何よりも、デビュー曲「寒い朝」から始まる一連のヒット曲が全て佐伯・吉田コンビによる青春歌謡の王道を行くような作品だったことを踏まえると、吉永小百合さんもまた、青春ビッグ4と並んで、青春歌謡を牽引した一人であったことは間違いありません。

 青春ビッグ4と小百合さん以外にも、青春歌謡を代表する歌手として記憶に残る皆さんを列挙すると、「湖愁」の松島アキラさん、「霧の中の少女」の久保浩さん、「若いふたり」の北原謙二さん、「青春の城下町」の梶光夫さん、「十七歳は一度だけ」の高田美和さん、「花はおそかった」の美樹克彦さんなどの名前が浮かんできます。
島倉千代子さんも「涙の谷間に太陽を」と、守屋浩さんとのデュエットによる「星空に両手を」という青春歌謡の佳作2曲をヒットさせました。個人的には、梶さんと高田さんのお二人によるデュエットソング「わが愛を星に祈りて」が、青春歌謡における珠玉の名曲として、僕の記憶の中に燦然と光り輝いています。
 それから、松竹の青春スターだった倍賞千恵子さんの「下町の太陽」も、やはり、青春歌謡に連なる名曲として歌謡史に刻まれていることも書き添えなければなりません。
 橋さんがデビューした昭和30年代半ばの状況について、玉置さんは著書で「この時期、10代の歌謡スターを作ろうというのは、歌謡界全体の使命でした」と振り返っています。
 そして、橋さんの成功により、各レコード会社もハイティーン歌手の育成に本腰を入れ始めるわけですが、玉置さんの著書によると、ビクターのライバルだったコロムビアは「あちらがハシをゆくなら、こちらは真ん中を渡ろうじゃないか」と、1961年(昭和36年)に中尾渉(なかおわたる)という歌手をデビューさせたという冗談みたいな話もあったそうです。
 その2年後の1963年(昭和38年)に舟木一夫さんが「高校三年生」でデビューし、ライバルのビクターも橋さんと同じ吉田門下の三田さんを「美しい十代」でデビューさせ、御三家の一角を占めることになる西郷さんも合わせて、青春ビッグ4を軸とする青春歌謡の一大ムーブメントへと発展していきました。
 「青春歌謡の原点はどこか」という命題は、僕だけでなく昭和歌謡のファンなら一度は思いを巡らしたことのあるテーマでしょうが、個人的には、3回連続で書かせていただいたコラムの執筆を通じて、一人の歌手や作詞家・作曲家、あるいは、特定の時期に絞り込めるような話ではないような気がしてきています。
 橋さんがデビューした1960年(昭和35年)から西郷さんが登場する1964年(昭和39年)までの5年間、つまり、60年安保の喧騒から東京オリンピックの興奮にいたる戦後日本の「青春」とも言える高度成長期に、青春ビッグ4や吉永小百合さんに代表される歌手の皆さんを熱烈に支持した当時の若者たちが体現していた“時代の空気”こそ、「青春歌謡の原点」だったのではないかと思うのですが、皆さんは、どのようにお考えになるでしょうか。

著者・鈴木清美

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四天王が駆け抜けた青春歌謡の時代(中)~著・鈴木清美 (2012年5月の記事より)

 1週間の御無沙汰…ではなく、1カ月の御無沙汰でした。前回は「ロッテ歌のアルバム」の番組スタート当初の事情から橋幸夫さんのデビューまでを紹介させていただきましたが、今回は、橋さんに続いて、舟木一夫さん、西郷輝彦さんが登場し、後に「御三家」と呼ばれる三人に三田明さんを加えた“青春歌謡四天王”について振り返らせていただこうと思います。

 前回の連載でも言及した通り、橋幸夫さんが「ロッテ歌のアルバム」に登場したのは、1960年(昭和35年)6月26日に放送された第108回のフランク永井ショーでの新人紹介でした。
 その時の様子を、玉置宏さんは自著『玉置宏の昔の話で、ございます』で、次のように振り返っています。
 「会場の回りには朝早くから、女子高生など若い女性を中心に大勢の客が並び、いったい何事が始まるのかというような人だかりで埋め尽くされていたのです」
 実は、この女子高生たちは、ビクターが用意した黄色い声援を張り上げるための動員だったそうで、フランクさんは会場に到着して「これは俺の客じゃない」と、まず眉をひそめます。リハーサルがスタートすると、会場の外が突然キャーキャーと騒がしくなり、フランクさんも音合わせのオーケストラを止めて外を確認したところ、到着した橋さんをファンが囲んで騒いでいるところでした。
 これも、ビクターが仕込んだ演出だったのですが、呼ばれていたマスコミ各誌も一斉にフラッシュを浴びせるなど大騒ぎとなっていて、事情を知らされていなかったフランクさんは激怒し、「俺は帰る」と言い出す始末となります。前年の1959年(昭和34年)にスタートした第1回日本レコード大賞で「夜霧に消えたチャコ」で歌唱賞を受賞し、翌年には「君恋し」で第3回日本レコード大賞まで受賞するフランクさんですから、当時、人気も実力も絶頂期で、プライドも人一倍高かったわけです。
 慌てたディレクターと一緒になって玉置さんも何とか引き止め、「フランクさんの歌になったら静かに聞くことを客に約束させる、という条件でフランクさんに納得してもらった」そうですが、「もし騒ぐようなことがあったら、本番中でも帰る」とフランクさんの剣幕は収まらず、橋さんのテレビ初出演は「ピリピリとした緊張感に包まれた」ものとなりました。
 玉置さんによると、中CMの前に登場した橋さんは、着流しスタイルではなく「目の覚めるようなスカイブルーのブレザー姿」で、学校を早退して会場に学生服でやってきた時とは別人のような眩しさに、動員された女の子たちも「すっかり虜になってしまい、その場でファンクラブに入会する子も大勢いました」というような展開となったそうです。
 それ以降はトレードマークの着流し姿となってしまったため、玉置さんも「そのブレザー姿はまだビデオもない時代の一度だけの幻のスタイルとして、いまだに私の目に初々しく焼きついています」と書き残すことになりました。

 橋さんは、「潮来笠」で一気にスターダムへと駆け上り、その後も、「南海の美少年」「江梨子」など次々とヒットを飛ばし、デビューから2年後の1967年(昭和37年)には吉永小百合さんとのデュエットによる「いつでも夢を」で第4回日本レコード大賞を受賞するなど、まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気となります。
 こうした橋さんの活躍に触発される形で、レコード各社も新しいマーケットとして定着した十代の若者向けスター歌手の発掘を急ぐことになっていきます。
 ビクターのライバル会社である日本コロムビアでは、当時の流行だったドドンパのリズムを取り入れて遠藤実さんが作曲した北原謙二さんの「若いふたり」(1962年[昭和37年]8月発売)が大ヒットしました。
 玉置さんは、この「若いふたり」で「コロムビアの青春路線がスタートしたのです」と振り返っていますが、「若いふたり」を書き下ろした遠藤さんの秘蔵っ子として登場することになるのが舟木一夫さんだったのです。
 橋さんは、吉永小百合さんや三田明さんなどと共に、ビクターの専属作曲家・吉田正さんの門下生として知られていますが、実は、デビュー前には、コロムビアの専属作曲家だった遠藤さんの歌謡教室に通っていました。橋さんの実力を認めた遠藤さんは、自信を持ってコロムビアのオーディションを受けさせますが、用意した曲は後に村田英雄さんがレコーディングした「蟹工船」で、橋さんも村田さん風にこの曲を歌ってしまったため、「村田英雄は二人要らない」と判断したコロムビアが、橋さんの採用を見送ります。
 責任を感じた遠藤さんが奔走し、何とかオーディションを受ける段取りをつけたビクターで、橋さんは見事に合格したのでした。
 もちろん、ビクターとしては、橋さんをコロムビアの専属作家である遠藤さんの元に預けておくわけにはいかないため、吉田正さんに預けられることになったわけです。
 当時の事情を知る玉置さんは、自著の中で、次のように振り返っています。
 「この一件は、遠藤さんにとって自分の非力が非常に悔しくもあり、心残りだったらしく」「舟木一夫くんがコロムビアからデビューする時は、真っ先に手を挙げて、舟木くんを育てることに燃えるのです」
 その遠藤さんが、橋さんで果たせなかった思いを込めて書き下ろした青春讃歌のメロディーが「高校三年生」(1963年[昭和38年]6月発売)でした。作詞は、遠藤さんが早くからその青春歌謡詞の世界に注目していたという丘灯至夫さんです。
 コロムビアの専属作詞家だった丘さんは毎日新聞の記者でもあり、担当していた『毎日グラフ』の学園祭特集の取材で、世田谷・松陰高校定時制の男子生徒と女子生徒がフォークダンスを踊っているのを見て、ショックを受けたそうです。大正生まれの丘さんには、男女の生徒が手をつなぐなど考えられないことで、その鮮烈な感動が「フォークダンスの手を取れば」というモチーフを生み、「赤い夕陽が校舎を染めて・・・」で始まる歌詞の誕生につながったのでした。

 「高校三年生」はレコードセールスが累計で100万枚を突破するミリオンセラーとなり、「修学旅行」(1963[昭和38年]8月発売)、「学園広場」(1963年[昭和38年]10月発売)と連続ヒットを飛ばした舟木さんは学園ソング路線を確立、年末には第5回日本レコード大賞の新人賞を受賞し、その人気を不動のものとします。
 これを見たビクターが対抗策として起用したのが、橋さんと同じ吉田門下の三田明さんで、デビュー曲「美しい十代」(1963年[昭和38年]10月発売)は、「高校三年生」と並ぶ学園ソングの代表的作品に位置づけられるものとなりました。それまで学校で歌うことはタブーだったはずの歌謡曲ですが、この一連の学園ソングは修学旅行のバスの中でも大合唱されるという現象を生み、「流行り歌が中学生に解放された」(玉置さん)のでした。
 一方、1963年(昭和38年)に発足したばかりの新生レコード会社だったクラウンからも、社運をかけた新人発掘の努力の結果、1964年(昭和39年)2月に西郷輝彦さんが「君だけを」でデビューを果たします。
 後年「青春歌謡」と総称されることになる当時の十代歌手による一群の楽曲では定番だった女性コーラスのイントロで始まる「君だけを」ですが、プレスリーに憧れて歌手を目指し、バンドボーイとしての下積み経験もある西郷さんですから、同じ青春歌謡ではあっても、エイトビートを体得したグルーヴ感は、他の楽曲とは一線を画すものでした。
 玉置さんも、歌謡曲の世界における西郷さんの存在感について、次のように解説しています。
 「西郷さんは若者向けの歌謡曲をもっとポップス寄りに展開してみせました。デビュー当時は『言葉がはっきりしない』と歌い方を非難する向きもございました。しかし、日本語をポップスのリズムとメロディーに乗せるための新しい試みであったことを知らされました」
 橋さんと舟木さん、西郷さんの人気は絶大なもので、やがて「御三家」と呼ばれるまでになり、この3人に三田さんを加えた四天王が「圧倒的なパワーで流行り歌を若者の娯楽に組み立て直してみせた」(玉置さん)のです。
 その4人が初めて「ロッテ歌のアルバム」で初めて顔を揃えたのは、1966年(昭和41年)1月30日に放送された第400回記念番組の時でした。もちろん、この揃い踏みに至るまでも、最多出演回数を誇る橋さんをはじめ、舟木さん、西郷さん、三田さんといった「青春歌謡」を代表する歌手の皆さんが、番組を通じて当時の歌謡曲ファンを大いに楽しませてくれたことは言うまでもありません。
 その「ロッテ歌のアルバム」と青春歌謡がピークを迎える前後のエピソードは、次回の連載で、改めて詳しく紹介させていただくことにしますので、お楽しみに。

著者・鈴木清美

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四天王が駆け抜けた青春歌謡の時代(上)~著・鈴木清美 (2012年4月の記事より)

 東京スカイツリーの開業まで、いよいよ2カ月を切りました。3月22日から始まった個人入場券の予約受付では早朝から旅行会社の前に行列ができるなど、工事中から注目を集めてきた人気も過熱の度合いを増してきています。昭和30年生まれのおじさんとしては「東京タワーも忘れないでね」と思わず呟いてしまうわけですが、今回は、その東京タワーが誕生した1958(昭和33)年にスタートし、テレビ揺籃期を代表する歌謡番組として多くの人々の記憶に刻まれている「ロッテ歌のアルバム」と青春歌謡の時代を振り返ってみようと思います。

 「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まったのは、1958(昭和33)年5月4日のことでした。
 現在も、桜前線の北上がニュースで伝えられるこの時期には、開幕したばかりのプロ野球が話題を提供してくれていますが、昭和33年と言えば、東京六大学野球で立教大学の黄金時代を築いた長嶋茂雄選手が読売巨人軍に入団した年ですから、世の中の耳目は、後年、「ミスター・ジャイアンツ」と呼ばれることになるスーパールーキーに注がれていたはずです。
 当日の新聞を確認してみると、紙面の上半分近くがラジオ番組欄で占められていて、テレビ番組欄としては、ラジオ番組欄の4分の1ほどのスペースが割かれているだけです。
 テレビのチャンネルもNHKと日本テレビとKRテレビ(現在のTBS)の3局しかなく、放送時間も朝7時台から夜10時台までとなっています。
 しかも、日曜日であるにもかかわらず、午前中のプログラムは一塊で紹介されているため、現在なら、新番組として華々しく紹介されているであろう「ロッテ歌のアルバム」も、「0・00 ◇15 歌 曽根史郎他」と1行でしか表記されておらず、番組タイトルさえ見当たりません。小さなスペースしか割かれていないテレビ番組の解説部分でも、全く言及されていないので、新番組として「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まることを知っていた人は一体何人いたんだろう、と今更ながら心配になってしまいます。
 『民間放送50年史』(社団法人・日本民間放送連盟)によると、1958(昭和33)年のNHK受信契約件数は、ラジオの1170万9173件に対して、テレビは僅か1万6779件にすぎません。前年の1485件からは10倍以上も増加しているとはいえ、ラジオの契約台数に比べると約700分の1という割合となりますから、「知る人ぞ知る」という状態だったのだろうと思われます。
 「一週間のご無沙汰でした」のキャッチフレーズでお馴染みとなる玉置宏さんも、「ロッテ歌のアルバム」の放送が開始される前は、ラジオの東京文化放送で主婦向けの情報番組を担当していました。
 2003(平成15)年にレコード会社8社による横断企画として発売されたCD「ロッテ歌のアルバム」にナレーションで参加している玉置さんは、当時の状況を次のように振り返っています。
 「この番組を、新しいテレビの歌謡番組を作ろうとしていたTBS(当時はKRテレビ)、スポンサーに決まっておりました当時のロッテ製菓、それに、広告代理店といった関係者が聞いてくれまして、司会の候補として白羽の矢を立てていただいたのでございます」
 当日の新聞紙面では、詳細が不明だった新番組の内容についても、同じCDの解説書に掲載されている玉置さんの文章で言及されており、「第1回の出演者は『若いお巡りさん』の曽根史郎、『哀愁の街に霧が降る』の東宝映画スター山田眞二、雪村いづみの妹=朝比奈愛子」というようなメンバーだったそうです。
 第2回は、「喜びも悲しみも幾歳月」の若山彰さんや「ここに幸あり」の大津美子さんなど、第3回は、歌う映画スター鶴田浩二さんやデュークエイセスなど。それ以降は、春日八郎さん、藤島桓夫さん、田端義夫さん、小坂一也さん、岡晴夫さんといったビッグスターをメインに放送が続けられました。
 株式会社ロッテが1998(平成10)年に発行した『ロッテ50年のあゆみ』では、「ロッテ歌のアルバム」がスタートした1958(昭和33)年について、「歌謡曲からポピュラーへの転換期。神戸一郎、青木光一など青春歌手、山下敬二郎、ミッキー・カーチスなどウエスタン歌手登場。新人として村田英雄、小林旭出演」と記されています。

 「ロッテ歌のアルバム」をリアルタイムで知る世代の皆さんにとって、番組の冒頭でBGMに乗って響き渡る「お口の恋人ロッテ提供、『ロッテ歌のアルバム』」という玉置さんの歯切れの良い番組タイトルと、それに続く「一週間のご無沙汰でした。司会の玉置宏です」というお馴染みのキャッチフレーズは、今でも耳にはっきりと残っているのではないかと思います。
 でも、この「一週間のご無沙汰でした」という名セリフが、実は、玉置さんのオリジナルではないということを知る人は少ないかもしれません。
 レコード会社8社の横断企画CDのナレーションで、玉置さんは、第2回から使い続けて自身の代名詞ともなったキャッチフレーズについて、次のように告白しています。
 「当時のラジオ東京の人気番組『素人寄席』の司会をやってらした漫談家の牧野周一さんが時折使っておられました。この番組がテレビ番組としてスライドしていった時に司会者も交代しました。そこで、私は、牧野さんが出演中の上野・鈴本演芸場へ、この『一週間のご無沙汰』をいただきにあがりました」
 後年、テレビの番組で一緒に司会をすることになった時、牧野さんに「あなたのおかげで、あの言葉が全国区になりましたなぁ。礼を言いたいのは私の方ですよ」と言われ、玉置さんは本当に嬉しく思ったと述懐しています。
 「ロッテ歌のアルバム」がスタートした当時、24歳だった玉置さんは「歌謡曲に関する知識はほとんどゼロだった」ため、ありとあらゆる資料を集めたり、各レコード会社から毎月の新曲テスト盤を送ってもらい、聞きまくったりしたそうです。
 ビデオテープが開発される前の時代で、もちろん、番組はナマ放送ですから、時間内に収めるために25秒のイントロを15秒に縮めて本番に入るというようなことも珍しくありませんでした。玉置さん自身も、自分で紹介コメントを短く作り変えなければならないといった苦労もしたそうですが、「番組の流れを壊さないように工夫を重ねているうちに、世間一般からは玉置節などと言っていただけるようになった」と振り返っています。
 放送開始当初はTBSだけの放送でしたが、玉置さんをはじめ番組スタッフらの努力により、ネット局はどんどん増えてライバルの日本テレビ系列にも割り込み、完全全国ネットの番組に成長していきました。
 放送スタート当初、「宣伝効果が上がれば、どんどん、ネット局を増やしていきますよ。一所懸命、やってください」と玉置さんにハッパをかけたプレハブの宣伝部には、「ハリスを倒せ」(※「ハリス」はライバル会社のガムのブランド名)という張り紙がしてあったというのも時代を感じさせるエピソードです。

 「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まった1958(昭和33)年は、2月8日から1週間にわたって東京・有楽町の日劇で「第1回ウエスタンカーニバル」が開催され、ロカビリー旋風が巻き起こった年でもあります。
 そのロカビリー旋風の熱も冷めやらない1960(昭和35)年。番組が念願の完全全国ネットを実現したこの年の7月、ビクターから粋な着流し姿の少年が股旅演歌で鮮烈なデビューを飾りました。
 ♪潮来の伊太郎 ちょっと見なれば
  薄情そうな 渡り鳥♪
 昭和30年代後半から40年代にかけて、「いつでも夢を」と「霧氷」で2度もレコード大賞を受賞した橋幸夫さんが、「潮来笠」で颯爽と登場したのです。
 私事となりますが、筆者が初めて覚えた歌謡曲も、実は、この「潮来笠」でした。
 当時、毎週日曜日になると、自宅と同じ長岡市内にあった母親の実家へ連れていかれ、お昼の店屋物などを食べさせてもらいながら見ていたテレビの画面には、必ず「ロッテ歌のアルバム」が映し出されていたものです。まだ、5歳だった自分が、レコードを聞いたり、ラジオを聞いたりすることはありませんでしたから、この「潮来笠」を最初に覚えてしまったのは、間違いなく「ロッテ歌のアルバム」の存在があったからでした。
 『ロッテ50年のあゆみ』には、「新人・橋幸夫、『ロッテ歌のアルバム』でテレビ初出演」と記されており、玉置さんの文章によると、「彼のテレビ出演は、1960年6月26日、「ロッテ歌のアルバム」108回、フランク永井ショーの新人紹介コーナー」だったそうです。「潮来笠」の発売はこの年の7月ですから、レコードがリリースされる前に、テレビでデビュー曲を披露したことになります。あるいは、筆者も、この時の「ロッテ歌のアルバム」を見ていたのかもしれません。
 玉置さんは、「潮来笠」前後の事情を、次のように振り返っています。
 「橋幸夫さんの成功以降、歌謡界の人気者は十代のアイドルが中心になりました。(中略)もちろん、それ以前にも、美空ひばりさんを筆頭に、十代のスターは時折、現れました。しかし、みんな、例外的な存在でございました」
 流行り歌は“大人の娯楽”だったのであり、「潮来笠」も大人向けの企画として誕生したわけです。玉置さんは、「それを17歳の若者が歌ったところに清々しく新鮮味がございました。思いがけなく、若いファンが激しく動きました。レコード業界は若い購買層を開拓する新しいビジネスを発見したわけでございます」と指摘しています。
 そして、この橋さんの成功を受けて、レコード各社は十代のアイドルスターを誕生させるべく動き始め、やがて、コロンビアの舟木一夫さん、クラウンの西郷輝彦さんが登場し、橋・舟木・西郷の御三家と三田明を含めた四天王を中心とする青春歌謡の熱いムーブメントが広がることにになるわけですが、その展開は、次回の連載で続けさせていただきます。

著者・鈴木清美

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ラジオが生んだヒット曲(下)著者・鈴木清美

 前回は、南こうせつさんが1972年(昭和47年)10月から1974年(昭和49年)3月までの1年半にわたり、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティーを務め、かぐや姫による「神田川」の大ヒットもその間の出来事だったことを書かせていただきました。その直後に新聞の夕刊で南こうせつさんの連載記事が始まり、大ヒットの裏話にも言及されていましたので、改めて、筆者にとっても思い出深い「神田川」をめぐるエピソードを続けさせていただくことにします。

 「神田川」の大ヒットにより、リアルタイマーの同世代の間でかぐや姫の存在を知らない人はいないほど全国区の超人気フォークグループとなりましたが、「神田川」をヒットさせたのは第2次かぐや姫であったことを知る人は少ないかもしれません。初代かぐや姫は、1970年(昭和45年)に「酔いどれかぐや姫」というシングル曲でクラウンからデビューし、五木ひろしさんや八代亜紀さんなどを輩出した「全日本歌謡選手権」にも出場したことのある異色グループでした。
 森昌子さんの「越冬つばめ」を作詞した石原信一さんの著書『あの日フォークが流れていた』(シンコーミュージック)の中で、南こうせつさんは「レコード会社のキャンペーンに振り回されていましたね。このままでは僕が音楽をやろうとしたメッセージが伝わらなくなると思って、グループを再結成したんです」と当時を振り返っています。
 レコードセールスよりもライブを中心にして、自分たちの音楽を直接広めていこうという方針に転換し、1971年(昭和46年)9月には、吉田拓郎さんや小室等さんの六文銭などをゲストに招いて、日本青年館ホールで華やかな結成コンサートも開いています。同時に発売された再デビュー・シングル「青春」のB面に収録されていた「山椒哀歌」を作詞したのが、後に「神田川」を書くことになる喜多条忠さんでした。
 数年前に放送された「神田川」をテーマにしたテレビ番組で、南こうせつさんは、喜多条忠さんとの出会いについて、次のように語っています。
 「文化放送にレコード会社の人と売り込みに行った時に、まだ無名だった放送作家の喜多条さんを紹介してもらい、『混沌とした時代に面白いことやりたいよね、詞を書いてみない』と強引にお願いしました」
 1973年(昭和48年)7月に発売された3枚目のアルバム「かぐや姫さあど」に収められている「神田川」には、興味深い誕生秘話が残されています。
 前述のテレビ番組によると、アルバム制作のために、当時はまだ珍しかった16チャンネルの録音機材を備えたスタジオを、レコード会社が半日だけ押さえることに成功。発売日までのスケジュールを逆算すると「今日が締め切り」という日に、徹夜明けで番組の収録を終えたばかりの喜多條忠さんに、南こうせつさんがアルバム用の作詞を依頼したものの、いったんは「無理」と断られてしまいます。
 ところが、タクシーで放送局から家に帰る際、視界に飛び込んできた神田川を見て「この川の上流で学生時代に一緒に暮らした女性がいたんだ…」と感慨にふけった喜多条さんの頭に浮かんだのが、あの「神田川」のイメージだったのでした。

 一気に詞を書き上げた喜多条さんが、その日の夕方、完成したばかりの詞を電話で伝えてきた時の様子を、南こうせつさんは鮮明に覚えているそうです。
 「ファックスもメールもない時代でしたから、そばにあった新聞のチラシの裏側にボールペンで書きとめました。それでも、『赤い手ぬぐいマフラーにして』とか変な歌詞だなと思いつつ、書きとめているうちにメロディーが浮かんできて、全部書き終えた時には、ほぼメロディーが出来上がっていました」(前述のテレビ番組)
 実は、筆者も一度、学生時代に喜多条さんのお宅にお邪魔したことがあり、喜多條さんが学生運動を行っていた早稲田大学の2年生当時、3畳一間の彼女の家に転がり込んで同棲生活を送っていたというお話を聞かせていただいてことがありました。「同棲していたのは、この人じゃないんだけどね」と、横にいらっしゃった奥様と目を合わせながら苦笑されていたのを鮮明に覚えています。
 結局、「神田川」も収録されたアルバム「かぐや姫さあど」からシングルカットされたのは、山田パンダさんの作詞・作曲による「僕の胸でおやすみ」でしたが、冒頭でも書かせていただいた通り、アルバムが発売された年からTBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを務めた南こうせつさんが、番組で「神田川」を紹介したところ、大反響を呼んだのでした。
 「『神田川』はアルバムのB面の1曲にすぎず、レコード会社も何の関心も払わなかった。ある日、パックインの番組の中でかけたら翌日、段ボール箱2つ分のリクエストはがきが届いた。これはすごい。オリコンで何位までいくか、僕たち3人は『こっくりさん』という当時、はやっていた占いをやってみた。結果は72位。そんなもんかと思っていたら、神田川は、あっという間にオリコン1位まで駆け上がった」(日本経済新聞・2013年11月19日夕刊「こころの玉手箱/南こうせつ[2]」)
 アルバム「かぐや姫さあど」から急きょシングルカットされた「神田川」は、ミリオンセラーとなる爆発的な大ヒットを記録し、続いて発売された「赤ちょうちん」「妹」もヒット。ヒットした曲の映画化など、メンバーの気持ちとはかけ離れた形でのビジネス展開に戸惑いを感じたかぐや姫は、1975年(昭和50年)4月に突然解散しますが、かぐや姫はデビューから3年半ほどの間に、シングル300万枚・アルバム677万枚という不滅の大記録を打ち立てました。

 「神田川」は、楽曲を歌ったミュージシャンが自ら担当するラジオ番組で紹介し、大ヒットにつながったケースですが、この昭和40年代末から50年代初めにかけては、全国のラジオ局のフォーク担当ディレクターが自らの推薦する曲を積極的に放送し、ヒット曲が相次いで誕生した時期で、石原信一さんは著書『あの日フォークが流れていた』の中で、その代表曲がイルカの「なごり雪」だったと記しています。
 伊勢正三さんの作詞・作曲による「なごり雪」も、「神田川」と同様にかぐや姫のアルバムに収録されていた曲でした。イルカのレコード制作を担当していたユイ音楽出版の陣山俊一ディレクターは、「ラジオ局に遊びに行くと、あの『なごり雪』はもったいない。誰かに歌わせることはできないだろうかとよく言われたんです。僕もこの曲を歌うことで一人のアーティストが売れると思いました」と語り、かぐや姫の解散で残された名曲が、イルカによって1975年(昭和50年)リリースされるにいたった経緯を振り返っています。
 「なごり雪」の編曲は、荒井由美さん(当時)の曲のアレンジをしていた松任谷正隆さんが担当しましたが、ピアノのシンプルなタッチで始まるイントロの長さは、レコーディングの際、半分に短縮されました。「イントロが長いと、その分、歌が途中でカットされかねない」と考えた陣山ディレクターが、松任谷正隆さんに説明して納得してもらったそうです。「なごり雪」大ヒットの背景には、ラジオを大きな武器として展開する戦略が立てられれていたのでした。
 石原信一さんによると、「陣山俊一にとってイルカの『なごり雪』のプロモーションはラジオ局回りしか考えられなかった。75年当時、まだ、CMとのタイアップもなく、テレビに出るとアーティストの寿命は短くなると言われていた」のに加え、テレビをはじめとするマス媒体も、「『フォークは若者のものであり一般大衆の音楽ではない』という認識があった」と指摘。ラジオ局内部でも同様で、フォーク担当ディレクターは少数派だったため、逆に、「彼らは若者の音楽文化を担っているというプライドがあったし、新しい音楽の波を自分たちで作ろうとしていた」(石原信一さん)そうです。
 同時に、この頃から広がり始めた「ニューミュージック」という言い方をめぐり、石原信一さんは、「荒井由美の従来のフォークと差別化したニューミュージックという言葉とは違って、イルカの場合、フォークをより大衆と結びつける形のニューミュージックだった」と喝破しています。
 1960年代の半ばに、マイク眞木さんの「バラが咲いた」やブロードサイドフォーの「若者たち」、森山良子さんの「この広い野原いっぱい」、荒木一郎さんの「空に星があるように」など、キャンパス・フォークともカレッジ・フォークとも呼ばれた一連の楽曲が、当時の若者の間に広まっていくうえで、ニッポン放送の「バイタリス・フォーク・ビレッジ」をはじめ様々なラジオ番組が大きな役割を果たしました。そして、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」を世に送り出して以降も、数多くの名曲を世に送り出してきた深夜放送に代表されるラジオの若者向け番組は、フォークやニューミュージックが時代を代表する音楽として地位を固めるのを支え、今も歌い継がれる数多くの名曲を残してくれたのでした。

著者・鈴木清美

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Jポップの革命児、井上大輔。「昭和の作詞・作曲家列伝」著者・野口義修

さて今回は、Jポップの革命児、井上大輔(いのうえ だいすけ、1941年9月13日 - 2000年5月30日)さんをご紹介いたします。
井上さんは、東京都出身のミュージシャン、作編曲家です。本名の井上忠夫として、GS(グループサウンズ)の王者、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのボーカル&フルート/サックス奏者としての印象の方が強い方も多いのではないでしょうか?

井上さんは、日大芸術学部出身です。同大学の後輩には、ザ・ゴールデン・カップスのデイブ平尾さんがいます。
また、『機動戦士ガンダム』などで知られる巨匠の富野由悠季監督は、井上さんの大学の同級生。この事実は、井上さんのキャリアに大きな意味を持っています(後述)。
大学では、映画学科演出コースから音楽学科作曲部門に移って勉強したそうです。
冨野さんとの出会いも必然であったわけですね。
日大時代には、学生バンドを作ってジャズ喫茶などでモダン・ジャズを演奏していたそうで、その時(1963年)、ジャッキー吉川にスカウトされブルー・コメッツ(ブルコメ)に参加しました。
井上さんは、このバンドで数々の伝説的なヒット曲を書きました。GSというと若手作家が楽曲提供をして、それを演奏するというイメージが強いのですが、井上さんに限っては、大卒でインテリしかも理論にも通じている本格派であるという点で、一線を画している存在でした。
ブルコメのレコードデビューは、1966年3月。GSブームの2年ほど前です、彼らのサウンドを理解する人も少なかったため、日本コロムビアの海外レーベルから英語の歌詞「青い瞳」でデビューしたのです。
このシングルは、今聞いてもカッコ良く井上さんの、そしてブルコメの実力が十分発揮されています。
実際、井上さんは、本質的に洋楽系のロックやインテリジェンスあふれる曲をやりたかったのでした。

デビューの年に、いきなり大きな仕事が舞い込みます。ビートルズ武道館公演に前座として参加したのでした。
まだ若かった井上さんに、ビートルズの演奏は計り知れない影響を与えたはずです。
井上さんは、その後、GS自体の運命を変えるほどの作曲をします。
それが、「ブルー・シャトウ」(作詞:橋本淳、作曲:井上忠夫、編曲:森岡賢一郎)です。
同曲は、1967年3月15日に発売され、レコード売上150万枚というブルコメ最大のヒット曲となりました。そして、第9回日本レコード大賞を受賞したのです。
長髪で何となく不良っぽいという印象だったGSが、この曲のヒットによって、音楽的にも社会的にも認知された形になりました。
それは、井上さんのインテリな部分が下支えをしていたと言えるでしょう。
しかし、彼はこの1曲で後に大きく後悔をするのです。
この曲は、橋本淳さんに歌詞を見せられて、ほんの3分で出来たメロディーでした。
井上さんの中の日本的な部分がスッと表現された楽曲だったのですが、それは当時の井上さんの思い描いていた音楽感やGSの進むべき方向性とは、真逆の音楽だったというわけです。
正直、レコード大賞を取った時点で「ここで終わった」と感じたそうです。また、「もうブルコメはやめよう」とも真剣に考えました。
井上さんが、ミュージシャンとして本当に追求したかったのは、下半身で感じるポップスでした。
自分が作った「ブルー・シャトウ」で、図らずもGS全体の方向性を歌謡曲の方にシフトさせてしまったわけですから、井上さんの葛藤は計り知れないですね。
しかも、♪森とんかつ~~泉にんじん~~かこんにゃく~~まれ天ぷら……と、尻取りソングのように子供達に広がったのですから、その替え歌は、おそらく井上さんの心をチクチクと刺したでしょう。
翌年、ブルコメは「ブルー・シャトウ」の邦楽バージョンをひっさげて、アメリカの人気音楽番組、(ビートルズもそれに出演しブレイクしたという)エドサリバンショーに出演します。
イントロでメンバーのキーボード奏者、高橋さんの琴をフィーチャーし、まるで邦楽のように歌い出します。
その後、英語訳で歌い、最後は日本語オリジナルバージョンで締めくくります。
素晴らしい演奏でした! やはり、心の底では井上さんの叫びが聞えてきそうです。

GS時代に、井上さんに大きな影響を与えたのは、当時の日本の歌謡界を支えていた作曲家やアレンジャー達でした。
宮川泰、東海林修、筒美京平……といった素晴らしい才能達に、自分自身負けていると感じていたそうです。
ですから、ブルコメ解散後は、迷わず、作家の道に進んだのです。

その後の井上さんの活躍には目を見張るものがありました。
フィンガー5「学園天国」「恋のダイヤル6700」、シャネルズ(のちのラッツ&スター)「ランナウェイ」「街角トワイライト」「め組のひと」、郷ひろみ「2億4千万の瞳~エキゾチック・ジャパン」、沢田研二「きめてやる今夜」「どん底」、葛城ユキ「ボヘミアン」 、シブガキ隊「NAINAI16」「処女的衝撃」「100%…そうかもね」「ZIGZAGセブンティーン」「挑発∞」、鈴木聖美「TAXI」 、ヴィーナス「キッスは目にして」(編曲)……etc. まさに、大ヒットメーカーですね。

たとえば、シャネルズ(ラッツ&スター)。
ラジカセ『ランナウェイ』のCMソングを歌わせるアーティストを探していた井上さんは、黒塗りの面白いバンドがいると聞きつけ、早速会いに行きました。
彼らは、アメリカの1950年代のロカビリー・サウンドが得意なバンドでしたが、井上さんに言わせると、自分がGS時代に出来なかったことを形にしているバンドでした。
GSが、歌謡曲に曲がってしまわなければ、シャネルズのような形もGSに生まれていたはずだと感じたのです。
だから、彼らには自分の音楽的なノウハウや演奏法、歌い方など徹底的に指導したそうです。
音楽には、実験的な部分が必要であるというのが井上さんの考えです。
だから、割と自由に出来るCMソングという制作現場で、彼は様々な実験を行ったのでした。
「ランナウェイ」も、最初はCMだけのはずが、狙いが当りシャネルズ(ラッツ&スター)のデビュー曲としてミリオンを記録しました。

裏方として作曲やプロデュースの世界で頑張れば頑張るほど、自分がフロントで歌いたいという想いも強かったのでした。
しかし、なかなか自分でのヒットは難しかったのですが、大学の同級生との出会いで、その願いが叶いました。
機動戦士ガンダムの映画の主題歌「哀・戦士」です。
実は、ガンダムのアニメ映画を作ることになった富野由悠季監督は、「CMをやっているような人が、受けてくれたら、アニメの楽曲、やっぱりちょっと変わってくんじゃないのかな。であの、ダメ元でとにかく、やってくれっていうのを僕のほうからお願いした」のだそうです。
ある意味、その後のアニメ音楽の大きな流れを作ったといっても過言で無い意味のあるコラボでした。
また、監督は……井上さんについて
「なまじ名前が出てしまった後って、本当に大変だ! 作曲家として割り切ってしまえば、食っていけるけれど、井上さんはやはり歌いたいんだ!だから、このガンダムの仕事をベースメントにしようとなりふり構わずやってくれた!」
といった内容のことを語っています。

井上さんは、常に革命児として、世間や業界、仲間、ファンなどに、戦いを挑みながらやってこられたと思います。
1975年頃から、洋子夫人が体調を崩し入退院を繰り返すといった闘病生活が続いていました。介護や看病は井上さんが、20年以上にわたって、自身で行っていたそうです。そんな中、ご自分も重度の網膜剥離となってしまいました。

そして、2000年、自らあの世へ旅立たれました。享年58歳、遺書には「洋子 ごめん もう 治らない」と書かれていたそうです。
翌年、洋子さんも大輔さんを追うように自ら命を絶ってしまいました。
お二人のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。

Jポップの革命児、井上大輔さんの作品の数々をもう一度聴いてみませんか?

著者・野口義修

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